その想いを届かせない
著/秋山真琴


 雨……?
 太刀洗悠里は、左の掌を持ち上げ、夜空に目を向けた。
 正にその瞬間だった。ひときわ鋭い風に暗雲が押し流され、月が翳り、闇が満ちた。
 悠里は視線を前へと転じる。
 いつの間にか雨都京子は刀を抜いていた。
 それはすなわち、京子が刀の中に宿っている鬼を解放したことを意味する。
 鬼。
 京子はその肉体と携える刀とに、それぞれ一匹ずつ、鬼を従えている。肉体に宿りし鬼は、自身を歪と号し、刀に宿りし鬼は、自身を揺と号している。
 歪みと揺らぎ。
 今、京子を主と認める二匹の鬼が、彼女に寄りそい、歪み揺らいでいた。そしてまた京子自身は、鬼を使役する修羅として――鞘を失った刀そのもののように――禍々しき波動を発していた。
 悠里は思わず目を背けそうになる。
 禍った姿の京子は、邪悪な気をまとっていて、それは観じているだけで何かが感染してしまうような忌避感を悠里の本能に与えた。刀をぶらさげた京子の後ろ姿を見ていることが、なにかとてつもない過ちであるかのような。取り返しのつかない仕損じを、今まさにしているかのような。
 焦燥感が悠里の視線を惑わせる。
「ゆーり」
 緊張が限界にまでふくれ、その場から逃げ出したくなったとき、京子が背中越しに声を投げかけた。その声色は、強圧的な後ろ姿からは想像もできないほどに、慈愛に満ちていて、悠里の身体の震えは弱まった。
 悠里の動向がまるで見えているかのようなタイミングで――実際、京子の肉体に棲んでいる歪は、悠里の一挙一動を見守り、その様子を逐一、京子に報告していた――京子は鞘を背後へ放り投げた。
 漆黒に染めあげられた鞘が、放物線を描き、悠里の手の中に収まる。
 鞘を受けとった悠里は、まるで機械のように精緻な動きでもって、無骨な鞘を捧げるように持ちなおした。
 京子の鞘を持つことは、悠里に与えられた、戦場におけるたったひとつの役目であると同時に、村上家から分かれた剣持家が滅びた際に、剣持家と同じように、村上家から分かれた太刀洗家へと引き継がれた任務であった。
 しっかりと鞘を掲げた姿勢を取り、悠里は溜めていた息を吐く。
 ある事件により“声”を失った悠里は、助けを求める叫びを放つことはできない。それが直接の原因であるとは限らないが、京子は悠里に鞘を持つこと以上を求めなかった。
「恐くなったり、危なくなったりしたら、いつでも逃げなさい」
 禍っても歪んでも揺らいでもいない、昼間の京子の言葉が思い返される。
 ぽつ……ぽつ、ぽつぽつぽつ。
 緩やかに、雨が降りはじめる。
 薄ら寒い夜気に、雨の生温かさが交じりだす。
 悠里は鞘を掲げ持ったまま、微塵も動かず、ただ、京子の後ろ姿を見つづけた。

『己が主君よ、じきに雨が降りだします、今しばらくこの拮抗状態を維持されるとよいかと存じます』
『ハ! 貴様、何を脅えている。目の前の敵の姿が見えているのいるのか。――吾が宿主よ、あのような魔獣一匹、恐れるに足りませんぞ。今すぐ斬り刻んでやりましょう』
 自分自身に寄りかかるようにして立っている精悍な鬼と、刀の鍔に肘をついている痩せぎすの鬼との、いつものいがみあいを聞きながら、京子はいつもの苦笑をもらした。
「まあまあ、ふたりとも。油断大敵って言うし、雨が降りはじめたら一気に片付けようね」
 主の言葉に、歪は自信に満ちた笑いを見せる。
 逆に、揺の方は地面に唾を吐くと――勿論、京子の幻覚に過ぎない鬼は、唾を吐く真似をしただけに過ぎない――顔を背けて『これだから、吾が宿主は……』とぼやいた。
 その様子を見ながら京子の隣で歪は、やれやれとでも言うかのように肩を竦めてみせた。
「歪、ゆーりはどうしてるかしら」
『やや興奮しているようにございます。心拍数が平時よりも多く、体温も平熱より僅かに高いです』
「そう」
 京子は短く応えると、鞘を持ちなおし、背後に控えている悠里に向けて声を掛けた。
「ゆーり」
 ただ一言。
 その名前を唱えてから、京子は鞘を背中越しに投げた。
……どうやら悠里は、無事に受けとめたようだった。鞘が地面に落ちる音はしなかった。
『しかと受けとめました』
 歪の報告に首肯だけを返すと、京子はもう悠里の存在は忘れ、目の前に敵に意識を集中させることにした。
 敵は巨大な口だった。
 顎扉と呼ばれるその魔獣は、滅びの風が吹く都市の外にのみ生息し、それが知覚しうる範囲に生物が入れば、迷うことなく牙を剥く。
 今、顎扉は同じ場所に浮かび、ただクルクルと回っていた。それは実に奇怪な様子であったが、生まれ育った都市を出て、外の世界を旅している京子にとっては馴染みの動きであった。
 具体的にそのクルクルに何の意味があるかは解明されていないが、一度そのクルクルが始まると顎扉は丸一日、その場で回りつづける。
 ぽつ……ぽつ、ぽつぽつぽつ。
 待っていた雨が降りはじめた。
 腕組みをしていた歪が、軽く身を屈め、バネを溜めるのが見ずとも判った。だらけていた揺は、手首や首をポキポキと鳴らしながら立ち上がった。
「行くよ」
 京子は前傾姿勢を作ると、クルクルと回りつづける顎扉へ向けて疾走した。

 顎扉は還り道を探していた。
 あまり知られていないことだが、顎扉を含む多くの魔獣と呼ばれる存在は、遠い未来の住人である。彼らはいつまで経っても滅びない過去の世界に業を煮やした未来の人間によって、過去へと送りこまれた刺客にしてエグザイルだ。
 生きる権利を剥奪することで、生きとし生けるものの運命を等比数列的に消費させる滅びの風に対して強い耐性を持っている彼らはしかし、未来の世界へと還る術を持っていないがゆえにどうすることもできず、過去の世界を彷徨い歩いていた。
 彷徨いながら、彼らは都市から都市を旅するものを見つけ、それを喰らう。
 口だけの魔獣である顎扉に喰われたものが、どこに消えるのかは顎扉自身も知らない。喰われた瞬間に消滅するのか、十字星の果て久遠の彼方と呼ばれる最果てにまで飛ばされるのか、それともかつて顎扉が住んでいた未来の世界に送りこまれるのか。同属をけして喰らわない顎扉たちに、自身に喰われた生き物がどこへ行くのかは全くの未知であった。
 都市から都市を旅するものに討たれた顎扉もいる。
 なぜか滅びの風に吹かれても動きが鈍らず、鋭敏で強靭な魔獣の攻撃を受けても反撃し、ついにはこの未来の生物を打ち倒す。そういった旅人に顎扉が敗れることは稀ではあったが、けして少なくはなかった。
 今にも雨が降り出しそうな中、クルクルと回っている顎扉は、今までに七十人の人間を喰らった。彼は他の顎扉より記憶力が優れていたために、今までに喰らった人間の顔と最期をすべて忘れずに覚えていた。
 今日も彼らは七十人の人間を思い返しながら、懐かしき故郷へと還り道を探し、クルクルと回っていた。
 彼は回りつづける自分を遠くから眺めている女に気付いていた。妙な気配を放っているなと思ったが、滅びの風をものともしない人間ならば、多少、妙な気配を放っていても不思議ではなかった。
 クルクルと回りながら彼は思う。きっと自分はこの女に殺されるだろうと。その女の肩口までの髪と穏やかな目は、共に真っ黒だった。それは自分が喰らった七十人の人間のうち、三人と同じ色だった。
 仇なのかもしれないと、彼は思った。
 ぽつ……ぽつ、ぽつぽつぽつ。
 雨の中、顎扉はただ、クルクルと回りつづけた。

 悠里の眼前から、京子の姿が掻き消えた。
「あれ?」と思ったとき、京子はすでに刀を振りおえており、遠くでクルクルと回っていた敵は、切り伏せられていた。口だけの魔物は、すぐに滅びの風に吹かれて、灰になって消えた。
 京子がこちらを向くのが見えた。
 悠里は持っていた鞘の口を、彼女の方に向ける。
――トン。
 衝撃と共に、宙を飛んできた刀が寸分の違いもなく、鞘の中に収まる。
 ふと見上げると、ひときわ鋭い風が雨雲を押し流し、月が顔を覗かせるのが見えた。
 視線を前方へと転じると、雨都京子が月明かりの中、微笑んでいた。
 刀の入った鞘を抱きしめ、悠里は京子の元へ駆けていった。