雨の街角
作/街角闘人


1.彼の小唄
 ピチャリ。
 水滴が頬に当たった。冷たい小さな雫が涙のように流れ落ちていくのを感じて、伊織悠人は歩を止め空を見上げた。
 薄い灰色が視界いっぱいに広がる。
(……雨?)
 そう思考した頭が、ピチャリ、また濡れた。「イタッ」短い声が漏れる。悠人は額の雨粒を拭いつつ、視線を下に向ける。アスファルトが水玉模様になっていた。
(雨なんか聞いてねぇぞ)
 悠人が確認し信頼した天気予報は昨夜零時の時点での最新情報だった。今朝方、彼の母親が見ていたテレビのお天気コーナーでは女性キャスターが「都心部ではところにより雨が降るでしょう。傘を持ってお出かけください」と伝えていたが、彼は知らない。文字通り聞いていなかった。勿論傘など持って来ていない。
(ったく、なんでみんな傘持ってんだよ)
 道行く人々の手から色とりどりの花が咲いていく。小走りのスーツ姿からは大きな漆黒が、並んで歩く女子高生からは安っぽい透明色が、横断歩道で競争している子供たちからは赤白黄色が、天の恵みを喜ぶように開花を始めた。しかし、そんな情緒を楽しむ余裕など彼にはない。悠人は歩き始めた。さっきまでよりも早足になっている。
(どうせ通り雨だろ。あっちの方、晴れてるし)
 鞄のサイドポケットから携帯電話を取り出しサブディスプレイを見ると、液晶の小さな画面は「12:38」を表示していた。ポタッ。数字が滲む。
「……あと二十分くらいか」
 呟き、袖で画面を拭ってから、しまう。待ち合わせ場所の駅までは歩いても十五分くらいだ。雨足はまだそれほど強くなってはいない。傘を所持していても差さずに走っている人も、まばらではあるが、いる。
(気が滅入るほどじゃない)
 悠人も走り出していた。
 歩幅を小さくして歩く人々の隙間を縫って、走る。視界が狭い。時折傘の端が悠人の顔に当たりそうになる。弾かれた雨粒が目に飛び込んで来ることもあった。
 駅前の交差点。赤く光る歩行者用の信号。悠人はまた曇天を仰いだ。雨の勢いが少し増している。すぐに顔を俯ける。信号が変わった。立ち止まっていた時間が歩き出す。つられて彼も歩き出した。
「ふぅ……」
(どうせ、来てないだろうな)
 悠人は溜息をつきながらも、三室素香の姿を探した。駅前広場の時計によると、約束の時間までまだ五分以上ある。屋根がある改札口まで移動して、携帯電話を出す。
 いつの間にかメールが来ていた。

「遅刻魔でぇす!
 わーい。
 せいぜい待っていてくれたまえよ。はっはっはー。」

(……またか。別にいいけどさ)
 微笑を浮かべつつ、返信の言葉を打ち込む。
 
「分かったから、早く来なよ。
 俺はもう着いてるから」
 
 ポケットに入れるとすぐに返事が来た。

「電車に言ってくれー!」

(もう十分くらいで来るかな)
 悠人はそう判断した。改札を背にし、身体が濡れないギリギリのところまで歩み出て、空を仰ぐ。雨、雨、雨。
(今日もいっぱいワガママを聞いてやろう。一緒に楽しく話して、色々見て回って、おいしいもの食べて、そして――)
 悠人は昨夜の声を思い出していた。真夜中、電話の向こうから届く闇に消えそうな囁き声。その声が紡いでいたもの。昔の話。今日の話。未来の話。あてのない話。ふつふつと、悠人の胸に湧き上がる感情。その熱。
(そして……素香を殺して――)
 チョンチョン、と。
 彼の肩をその指がつついた。
 伊織悠人はゆっくりと振り返った。
《IN THE RAIN》

2.彼女の小唄
 ゴォォォォォ……。
 電車がトンネルを駆け抜けていく。激しい音に乗客たちは僅かばかり身体を震わせた。三室素香は吊り革を握っていた手に力を込めた。薄く目を開ける。トンネルの壁に張り付いた電灯が眩しくてすぐ瞑った。
(ふぅ……)
 声に出さず溜息をつく。首をグルリと大きく回し、ポキ、頸椎の関節を、ポキポキリ、鳴らす。反動で左腕に引っ掛けていた黒い小さめの傘が揺れ、腰の辺りにぶつかった。
(はぁ……)
 電車はトンネルを抜け出た、が、窓の外は暗いままだった。太陽は雨雲の向こうに隠れている。空は少しずつ雨粒を落とし始め、街をざわつかせていた。
 対照的に、車内は静かだった。素香は目蓋を重ねたまま欠伸を噛み殺し、吊り革に体重の半分近くを預け、夢と現とを行きつ戻りつしていた。何を考えるでもなく、何を意識するでもなく。
「降ってきちゃったわねぇ」
 声。突然、背後から響いた声に、素香は嫌悪感を顕わにしながら目を見開いた。
(わぁ……ほんとだぁ……)
 窓ガラスに水滴が増えていく。一つ、また一つ。増殖を続ける雫は、風を受け互いにくっつき合い大きな塊となって斜めに滑り落ちていく。
(気が滅入るなぁ)
 彼女は自分を夢から覚ました犯人を振り返った。五十前後のオバサンが二人、どうでもよさそうなことを喋っている。
「はぁぁぁ……」
 今度は声に出して、長く深い溜息をついた。
 腕時計は一時五分前を指していた。電車が目的の駅に着くまで、まだ二十分はかかる。素香は携帯電話を取り出した。

「遅刻魔でぇす!
 わーい。
 せいぜい待っていてくれたまえよ。はっはっはー。
 
 



 ごめんね。」

 一分と待たずにバイブレーターが震えた。

「分かったから、早く来なよ。
 俺はもう着いてるから」

(分かってんのかなぁ? 分かってなさそうだなぁ)
 笑う。彼女の口から溜息が漏れることは、もうない。
(早く逢いたいなぁ)
 窓に映る素香の影、その頬に重なるように雫が流れていった。泣いているような自分の影と見つめ合い、一度大きく頭を振ってから、返信メールを出す。

「電車に言ってくれー!」

(うん。大丈夫。問題ない)
 昨夜の電話。今朝母親が口にした言葉。一月前に起きた事件。半年前から始まったもの。去年の今ごろまで続いてたアレコレ。いつもの口癖になった約束たち。その一切を意識することなく、素香は今日のこれからについて思いを巡らせた。
(今日もいっぱいワガママ聞いてもらお。そんでいっぱいお話して、お買い物もして、お食事して、それでそれで、いっぱい優しくしてもらおう。それからそれから――)
 電車が止まる。人の流れが急に激しくなった。飲まれるように、素香は電車を降り、足早に改札へと向かう。
 伊織悠人の後ろ姿が目に入った。
(それから……もしも、泣きたくなっちゃったら、泣いちゃったら、そんな弱い自分は、悠人にまた殺してもらおう)
 三室素香はその肩をつついた。
 彼が振り向く。
 ぷに。
「へへっ」
《IN THE PAIN》